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球磨川の氾濫と事物連関
先日の九州地方に降った大雨により球磨川が増水し、人命が失われた。
ご冥福をお祈りするばかりだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3a1f292b85fe6d53d8e68959e3d58b2ee29f6584 西日本新聞
記事によると球磨川の危険性は具体的に事前に指摘されていたとのこと。
ハザードマップなどでもおそらく市民が知る術はあったものと思われます。
しかし、住民には周知されていなかったのであろう。
その原因は何か。
それは地域と生活が分離していることにある。
地域とは山や川、気候などのことであり、刻々と変わる気象であり、温暖化に伴う頻繁化した大雨のことである。
生活とは仕事であり、学校であり、家庭であり、コミュニティのことだ。
農業は機械化され、効率化が進み人手が減った、それは人口減と高齢化の裏表の関係のことであり、かつグローバル化により食料も輸入され、その重要性が下降している。
一方で、多くの仕事はパソコンを通して行われ、対象がその周辺に無い。
このような分離している社会では、生活の基盤がその場所に根付かない。
それが引いては気候の変化や川の増水にも気づきにくくなっている要因に繋がっている。
仕事において専門性が増すとは、代理の社会になっているということです。
お金を支払うことで自分の専門外のことを代理で行ってもらう社会になっているため、自分を取り巻く事象に関心が薄くなっている。
しかし、地域と生活が融合していくことで、自分の周辺のことに関心が高まります。
そうなることで、牛われてしまった人命が救えた可能性がある。
それは、高齢者であれば同居している、近所に住んでいることであったり、
或いはその高齢者の足腰が丈夫、情報に敏感であったり、
自身の体は代理では済まない事柄であることが周知され救えた命もあったはずです。
しかし、どんな状況でも減少させることはできても、
失う人命がゼロになることはないと思われます。
地域と生活が一体になる流れの中で起きることは、
おそらく生きることの意味や死生観の捉え方が
同時に変わってくるとことだと思われます。
それはどのようなものかは分かりませんが、
生き生きとした日々であり、充足感、白か黒かで分けることのできない曖昧さ、
或いは覚悟であったりするかもしれません。

昨今よく聞くSDGsよりもっと先の概念かもしれません。